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2019/01/18

2019.1.18

 「どうじさま」のおまじないを聞いたとき、加藤文子ははじめやる気がなかった――というには少し語弊があるだろう。おまじないの類いをよく信じる文子にとって、「自分の欠けたものを補ってくれる」その儀式は恐ろしいものに思えたのだ。
 文子は勉強が好きで知識だけは多かったが、それ以外はなにもできない。運動もできないし、手先は不器用だし、人付き合いも苦手だった。そんな文子がもしも、おまじないを実行したら。
 欠けたものすべてを補ったら、それは本当に文子なのだろうかと、恐れたのだ。
 実際、文子の仲のよかった女の子たちは、同じように気弱で、人付き合いが下手で、勉強以外できないような彼女たちは、次々に人が変わったようになった。おまじないをしたのだと察するには、十分すぎる変化だった。
 堂々とした佇まい、恐れを知らぬ物言い、落ち着き払って何事にも動じない様子はどこか画一的な印象を受けた。それから高校生らしからぬ頭脳と知識量を誇るようになり、興味を持つものが文子と合わなくなっていった。おまじないをした子たちは別人になったのだと思わざるをえない様子であった。
 それが見ていて恐ろしかったから、やるつもりはなかった。
 しかし文子は今、どうじさまのおまじないの手順を踏もうとしている。誘われたからではない。
 自分以外のなにかになりたかったからだ。
 文子は、どうじさまをした友人たちを見て恐ろしいと思った。だが考えてみれば、――――自分でない方がよほど幸せに生きられるのではないだろうか?
 こんな勉強しかできない、全ての苦しみから逃げて、勉強に逃げ続けた自分より、欠けたものすべてを補った友人たちの方がよほど幸せに見えたのだ。
 生きている上で、文子である必要があるのだろうか?
 そうして自己否定が恐ろしさよりも上回ったとき。文子はどうじさまのおまじないをした。
 自分以外の者になるための、儀式をした。

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